ポール・グレアム

Y Combinator 共同創業者

オタクがモテない理由 Part.1

2003年 2月

中学生のころ、友人のリッチとぼくは、学食のテーブルの人気度マップを作った。楽勝だった。なぜって、子供たちは、人気度が同程度の連中だけで固まってメシを食うからだ。ぼくたちは、各テーブルを A から E にランクづけした。A ランクのテーブルにはフットボール選手やチアリーダといった連中がわんさか。E ランクのテーブルには、軽度のダウン症、当時の言葉でいう「知恵遅れ」の子供たちがいた。

ぼくたちが座っていたのは D ランクのテーブル。外見上、特に変わったところのない人間としては最低のランクだ。ぼくらのテーブルは、完璧なオタク(nerd)、思春期がなかなか来ない発育不良、最近移民してきたばかりの中国人でいっぱい。別に気取らないフリをして、自分たちを D ランクにしたわけじゃない。そんなことをいったら、まったくのウソになる。学校の中の誰もが、他人の人気度を正確に把握していた。ぼくたちも含めて。

ぼくの知り合いには、学校でオタク扱いされていた人が多い。そして、彼らは皆、口をそろえて同じ話をする。頭のよさとオタクになることの間には、強い相関関係があって、オタクになることと人気者になることの間には、それ以上に強い負の相関関係がある、って。頭がいいと、人気がなくなるようなんだ。

どうしてなんだろう?今、現に学校に在籍している人にとっては、これは愚問かもしれない。この現実はあまりに圧倒的なので、それ以外の可能性がありうるなんて、想像すらできないかもしれない。だが、ありうるんだ。頭がいいといっても、小学校では爪弾きになったりしない。大学卒業後の実社会でも、損になることはない。ぼくの知る限り、他のほとんどの国では、これほど問題は悪化していない。だが、典型的なアメリカの中高校(secondary school)では、頭がいいと、楽しい人生を送れないようなんだ。どうしてなんだろう?

ぼくの考えでは、設問を少し言い換えることが、このナゾを解くカギになる。頭のいい子供は、どうして自分を人気者にできないのか?そんなに頭がいいのなら、人気の仕組みを解明して、そのシステムを叩けばいい。共通テストならやっていることなのに、どうしてそれができないんだろう?

ある説によれば、これは不可能なんだそうだ。頭のいい子は、頭がいいせいで他の子たちにねたまれるから、なにをやろうと人気者にはなれない、というんだ。ほんとにそうだったらいいのに、とは思うよ。中学校時代、周りの子たちがぼくをねたんでいたのなら、よくまあ、ああもうまく隠しおおせたもんだ。いずれにしろ、頭脳優秀ということがほんとうにねたみの対象になるのなら、女のコたちが違った動きをしていたはず。男がうらやむような男なら、女のコにモテるはずだろ。

ぼくの通ってきた学校では、頭のよさはたいして重視されなかった。あこがれの対象でも、蔑視の対象でもない。他の条件がみんな同じなら、平均より優秀な方が、悪いよりはいいだろう。だけど、知的水準は、他の条件、たとえば外見上の見た目とか、カリスマ性とか、運動能力といったものにくらべて、はるかに低い評価しか与えられなかった。

知的水準がそれ自体では人気につながらないとしたら、頭のいい子たちが、決まって人気がないのはどういうわけだろう?ぼくの考えるところ、答えはこうだ。彼らは本気で人気者になりたいなんて、思っていない。

当時、そんなことをいう人がいたら、ぼくだって一笑に付しただろう。学校で人気がないと、どんなにみじめか。中にはあんまりみじめで自殺を図るやつだっているというのに。当時のぼくに対して、人気者になりたいとは思ってない、なんていうのは、砂漠でノドが乾いて死にそうな人に、水なんかほしくないだろう、というようなものだ。当然、ぼくは人気者になりたいと思っていた。

だが、実際はそうじゃない。それほどでもなかったんだ。もっとなりたいものが他にあった。それは頭のいい人間になることだ。学校の成績だけじゃない。それももちろん少しは関係あったけど、信じられないようなロケットを設計したり、うまい文章を書いたり、コンピュータのプログラム方法を理解したりするには、頭がよくなきゃ始まらない。一般的にいうと、すごいものを作れることが頭のよさの何よりの証拠で、定義としては、受動的な IQ テストよりも、そっちの方がずっと正確だ。

当時のぼくは、自分の願望を切り分けて、それぞれを天秤にかけてみるなんてことは、やったことがなかった。やってれば、わかったと思う。頭がいいことの方が、ずっと大事なんだって。学校一の人気者になるチャンスをもらっても、それと引き換えに頭の程度が人並みになるんだったら、ぼくは断っただろう。

人気がないことから来る苦痛も大きいけれど、こんな申し出を受けるオタクはそう多くないと思う。彼らにとっては、人並みの知能なんて、考えただけでも耐えられない。だが、たいていの子供はこの条件を飲む。そのうち半数にとっては、これはステップアップだ。最高を100として80ランクの人間(当時は、誰もがみんな、知性を量的に評価できると思っていた)でさえ、みんなに愛され、賞賛されることと引き換えになら、30ポイントを手離す気になるんじゃないだろうか?

そしてこれが、ぼくの思うに、問題の根っこなんだ。オタクはふたりの主人に仕える。もちろん、人気者にはなりたい。だが、頭がよくなりたいという思いはもっと強い。しかも、人気は、片手間に得られるようなものじゃない。特にアメリカの中学校のように、競争のすさまじい環境では。

アルベルティは「ルネッサンス人」の元型と称される人物だが、こんなことを書いている。「どんなに些細な技術であっても、それに卓越しようと思えば一生を捧げるしかない」。世界中どこを探しても、人気者になろうとして血眼になるアメリカの学校の子供たち以上に一生懸命な人なんていないんじゃないだろうか。あれに比べれば、海軍の特殊部隊(SEAL)や神経外科の実習生なんて、ナマケモノだ。彼らはたまに休暇も取るし、中には趣味がある人だっている。アメリカのティーンエイジャーの人気をめぐる努力は、起きている間じゅうずっと、1 年 365 日続くんだ。

彼らがみんな、意識してそうしているとはいわない。中には小さなマキャベリみたいなヤツもいるだろうけど、ここで言いたいのは、ティーンエイジャーが常に体制に順応することを強いられているということだ。

たとえば、10 代の子たちは、着るものにものすごく神経を使う。人気者になるために、意識して着飾ったりはしない。感じのいい服を着るんだ。でも、だれにとって?他の子たちにとって、さ。他の子の意見が、判断の基準になる。服だけじゃない。やることなすこと、ほぼすべて。歩き方にいたるまでがこの調子だ。だから、物事を「まとも」にこなすための努力は、彼らがそれを意識しているかどうかに関わらず、すべてが人気を得るための努力につながっている。

オタクにはこの理屈が通じない。人気者になるのに、努力が必要だなんて理解できない。だいたいにおいて、過酷な環境の外側にいる人には、そこでの成功の決め手が、コンスタントな(だが無意識的な)努力にかかっているってことがわからないものだ。たとえば、ほとんどの人は、絵を描く能力は、背の高さと同じで、天から与えられたもののように思っている。でも実際に絵を「描ける人」って、たいていは描くのが好きで、膨大な時間をこれに注ぎ込んできている。だからうまいんだ。それといっしょで、人気というのは、あるとかないとかいうものではなく、自分で「なる」ものなんだ。

オタクに人気がない主な原因は、彼らには他に考えることがあるという点だ。興味の対象は本だったり、自然界だったりするけれど、ファッションやパーティだったりはしない。水の入ったコップを頭から落とさないようにしながらプレーするサッカー選手みたいものだ。ゲームだけに全神経を集中するプレイヤーが出てくれば、簡単に蹴散らされてしまう。で、勝った連中は、不思議に思うんだ。どうしてこいつらこんなにヘタクソなの?ってね。

たとえ、オタクが他の子たちと同じくらい人気を気にしていても、そのためには人一倍の苦労がともなう。人気者の子は、人気を集め、人気者になりたいと思うように教えられている。それはちょうどオタクが、頭をよくし、頭がよくなりたいと思うように教えられているのと同じだ。親がそう教えるんだ。オタクが正解を出す訓練を受けている間に、人気者の子は人を喜ばせる訓練を受けている。

これまでのところ、ぼくは頭のよさとオタクとの関係をぼやかしてきた。両者が入れ替え可能であるかのように扱ってきたんだ。実際には、単なる前後関係でそうなるに過ぎない。オタクとは、社会にうまく適応できない人間のことだ。だが、どれくらい「うまく」ないといけないかは、状況次第。典型的なアメリカの学校では、カッコよさの基準は非常に高い(少なくとも、かなり細かい)。それゆえ、あえてダサさを演出しなくても、他人より十分ダサくなれるのである。

頭のいい子で、人気を気にする余裕も合わせ持っている子は、めったにいない。たまたま見た目がよかったり、生まれつき運動の才能に恵まれていたり、あるいは年上の兄弟が人気者だったりといったことがないかぎり、彼らはオタクになりがちだ。このために、頭のいい人間は、おおむね 11 歳から 17 歳の間に、人生で最悪の時期を迎えることになる。人生で人気がこれほどの力を持つ時期は、これ以前にも、以降にもない。

それ以前の子供の生活は、他の子たちではなく、両親に支配されている。小学校でも他の子にどう思われているかはやっぱり気になるけれど、後にそうなるように、それだけが生活のすべてということはない。

だが、11 歳あたりから、彼らは家族を昼間の仕事みたいに扱うようになる。自分たち自身で新しい世界を創り出し、家庭内での立場よりも、この世界での立場の方が重要になってくる。それどころか、家庭でトラブルを抱えていると、こっちの世界での評価が高まることだってあるくらいだ。

問題は、子どもたちが自分で作りだしたこの世界は、初めのうち、ひどく残酷な世界だということだ。11歳の子どもたちを、自分たちで作った仕掛けの中に放り込むと、彼らはたいてい『蝿の王』みたいな世界を創り出す。たくさんのアメリカの子供と同じように、ぼくもこの本を学校で読んだ。おそらく、それは偶然ではなかったのだろう。ぼくたちは野蛮だ。ぼくたちが自分で作った世界は残酷で馬鹿げてる。このことを、誰かがぼくたちにわからせようとしていたのかもしれない。でもぼくには、微妙すぎた。この本の内容は、まったくありそうな話だと思ったけど、そこに付け足されたメッセージはわからなかった。お前たちは野蛮人だ。お前たちの世界は馬鹿げてる。率直にそういって欲しかった。

原文 : http://www.paulgraham.com/nerds.html
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