ポール・グレアム

Y Combinator 共同創業者

愛することを仕事にする方法 Part. 2

上限と下限

しかし、自分の仕事のことを一体どれほど好きであればいいのだろうか?それが分からないと、仕事探しをいつ止めるべきかも分からないだろう。そして多くの人と同じように、「好き」の程度を低く見積もりすぎていると、仕事探しを早すぎる段階で止めてしまうことになるだろう。そうすれば結局、両親の選んだ仕事をすることになるか、ただ金や名声の高いものを選ぶか、あるいは勢い任せで仕事を決めてしまうだろう。

まずは上限。自分の愛すること、というのは今この瞬間に一番やりたいこととは違う。きっとアインシュタインにだって、コーヒーを一杯飲みたいけれど、その前に今やってることを済ませてからと自分に言い聞かせたことがあっただろう。

仕事以上に好きなことなんてない、という人の話を読んだとき、私はそれを理解することができなかった。そこまで好きになれるような仕事なんて、私にはひとつも思い当たらなかったのだ。仮に、 (a)今から1時間何かの仕事をする (b)ローマに瞬間移動して1時間散策する の2つの選択肢があったとしよう。私に(a)を選びたいと思わせるような仕事があるだろうか?正直、そんな仕事はない。

しかし実際は、ほとんど誰もが、難しい課題に取り組むことなんかよりも、カリブ海を漂流していたり、セックスをしたり、美味しいものを食べたりしていた方がいいと思うことだろう。「愛することをする」を考えるに上では、それにある程度長い時間をかけるという前提をたてなければならない。今この瞬間に最も幸せになれることをする、ということではなく、たとえば1週間とか1ヶ月といったような、長めの期間で見て最も幸せになれるようなことをする、ということなのだ。

非生産的な快楽というのは、いずれは飽きてしまうものだ。しばらくすれば、ビーチで横になっているのことにも飽きてくるだろう。幸せなままでいたいのならば、何かやらなくてはいけない。

下限としては、どの非生産的な快楽よりも仕事のことが好きでなければならない。「余暇」という概念が何かの間違いではないかと思える程、自分のしていることを好きでないといけない。ただ、自分の時間をすべて仕事に使えと言っているのではない。仕事をしすぎれば、疲れがたまり、間違いも犯すようになってしまうことだろう。そうなると、何か他のことがやりたくなる。例え、ばかみたい事でも。しかしそれでも、このひとときをご褒美だと思ったり、仕事に費やした時間をご褒美のために堪えた苦痛だと思うことができない

下限をそこに設定したのは実用的な理由からだ。もし仕事が好きでなければ、つい億劫で怠けてしまうだろう。無理に仕事をしようとしなければならないだろうし、そうすることによる結果は極めて粗末なものになるだろう。

幸せでいるためには、ただ楽しめるだけでなく、自分で尊敬していることをする必要があると思う。「すごい!なかなかクールじゃないか!」と自分が思えるようなことだ。何かを作らないといけないという意味ではない。

ハンググライダーの乗り方を覚えたり、外国語を流暢に話せるようになったりすることだって、しばらくの間は「すごい!なかなかクールだ」と関心には十分だろう。なので、テストが必要だ。

基準に達していないと思うもののひとつが、読書だ。数学や科学なんかの本を除いて、どれだけちゃんとその本が読めているかを測るテストはない。本を読むだけでは、それが仕事であるように感じないのはそのためだ。生産的だと感じるためには、読んで得たもので何かをしなければならない。

そんなテストの中で最も良いと思っているのは、ジノ・リーが教えてくれたテストだ:友達に「すごい」と言わせるようなことをやってみることである。しかし、22歳過ぎになっるまで、この方法はうまくいかないだろう。22歳になるまでは、ほとんどの人は友達を抽出するほどサンプル数が多くないからだ。

警戒すべきこと

するべきでないことは、友達以外の人の意見を心配することだろう。名声を気にするべきではない。名声というのは、世界中のその他の人間の意見にすぎない。自分が判断力を尊敬している人たちから意見がもらうことができるのに、知りもしない人たちの意見を気にしたって、良いことなんかないのだ。[4]

とは簡単に言っても、実際にそうしようと思うと難しい。特に若いときには尚更だ。[5] 名声は強力な磁石のようなもので、自分が楽しいと感じることすらもねじ曲げることができるのだ。本当に好きなことではなく、こんなことを好きになりたい、というというものをさせようとする。

それが、例えば小説を書こうと人に思わせる。みんな小説を読むのは好きだ。そして、小説を書いている人たちはノーベル賞をもらっている、ということに気づく。すると、小説家以上に素晴らしいものになれるだろうか、などと考えてしまう。しかし、「小説家になる」という考えを好きになるだけでは不十分なのだ。上手く書けるようになりたいのなら、実際に小説を執筆することが好きでなければならない。精緻な虚構を作り上げることが好きでなければならないのだ。

名声なんて、感動が化石化したものにすぎない。何であれ、十分に上手であれば、それが名声のあるものになるだろう。今では名声があると思われているものも、最初は名声と全く無縁だったものばかりだ。Jazzなんかもそうだ - 既存の芸術形態のほとんどがそうだ。なので、名声なんか気にせず、自分の好きなことをすればいい。

名声は、特に野心家にとっては危険だ。野心家の時間を雑用で浪費させたければ、名声が上がると釣れば良いだけなのだ。それが、人に講演を頼んだり、序文を書いてもらったり、委員を務めてもらったり、部長になってもらったりするための簡単すぎる方法だ。そう言う人は、単に名誉を伴う仕事を避けるというだけでも、良い指標になるだろう。もし、つまらない仕事でなければ、そもそも名誉のあるものになんかする必要はなかったはずだから。

同様に、尊敬する仕事が2種類あって、うち1つが名声のある仕事ならば、もう1つの方を選ぶべきだろう。何を尊敬しているかというのは、常に少しだけ名声に影響されてしまうものだからだ。なので、2つの仕事がどちらも同じよう思えるのであれば、名声の少ない仕事の方を実はより尊敬している可能性が高いだろう。

もう一つの大きな誘惑は、お金だ。お金そのものはそれほど危険なものではない。電話勧誘や売春、人身被害訴訟のように、いい金にはなるが人から蔑まれているような仕事の話に、野心家は乗らないからだ。なので、その種の仕事は、「生きていけるならばなんでも良い」と思っている人たちがやることになる。(ヒント:このような事を言っている人のいる仕事は避けた方が良いだろう)危険なのは、例えば顧問弁護士とか、医薬系の仕事のように、お金が名声と結びついた時だ。比較的安全で、華やかな未来が約束され、ある程度の名声が自動的に伴うような仕事は、自分の本当に好きなことが何か、まだあまり考えていない若者にとって、危険なほどに魅惑的だ。

人々が自分のしていることが本当に好きかどうかは、たとえお金をもらわなくてもそれをやっていたかと聞く事でテストできる。顧問弁護士の中で、生計を立てるためにはウェイターの仕事をして、弁護士としての仕事は無給で、余暇にでもやれと言われたとして、実際に弁護士を続ける人はどれだけいるだろうか?

このチェック方法は、学問分野でどちらかに進みたいかを決めるときなんかに、特に役に立つ。学問の分野における違いは特に大きいからだ。優れた数学者の多くは、仮に数学教授の仕事がなかったとしても数学をやるだろう。一方で、この対極にある分野においては、教職が得られるかどうかがその分野を選ぶ動機となる。ほとんどの人は、広告代理店で働くよりも英語の教授になりたいと思うだろうし、教授になるために論文を発表する。数学科がなかったとしても数学をやる人間はいなくならないだろう。しかしコンラッドの小説におけるジェンダーとアイデンティティについて何千何万もの退屈な論文が生み出されるのは、英文学専攻の存在、そしてそれ故にある英文学教授の職の存在があるからだ。あんな論文作成なんてことを、楽しみのためにやる人間なんていない。

両親の助言は、お金のことを気にする傾向がある。そして、小説家になりたいと思っているけれど、両親は医者になってほしいと思っている大学生のほうが、医者になりたいと思っているけれど、両親は小説家になってほしいと思っている大学生より多くいる、といってもいいだろう。そして、子供たちは、親が実利主義的だと思っている。しかし、そうとは限らない。どんな親も、自分の子供のことには自分自身のこと以上に保守的になる傾向がある。親とは、子供の成功による報酬以上に、リスクを共有しているからだ。8歳の息子が高い木に登ろうとしたり、10代の娘が地元の不良とデートすると言い出したとしよう。子供と一緒にワクワクしたりすることはないだろうが、息子が木から落ちたり、娘が妊娠させられたりしたときには、親はそうした結末に対処せざるを得ない。

[4]  仕事を考える上で、友人たちだけを参考にすべき、と言いたいわけではない。人は多い方が良いだろう。しかし、友人たちの言うことを最も大切に聞くべきだ。

[5]  ドナルド・ホールは、詩人を目指す若者たちが自分の作品が出版されるかどうかばかり気にしているのは間違っている、と言った。しかし、24歳の若者の詩が、The New Yorker誌に掲載されるということが、その若者にとってどういうことか、察しがつくだろう。その後、パーティーで彼に出会う人たちは、彼を本物の小説家として見るようになるだろう。実際には、彼は以前と比べ良くも悪くもなってはいない。しかし、何も知らない聴衆にとって、公的な権威による認定は効果絶大なのだ。なので、これはホールの認識している以上に難しい問題なのだ。若者たちがこれほどにまで名声を気にするのは、彼らの関心させたい人たちは、あまり人や物を見る目がよくないからだ。

原文 : http://www.paulgraham.com/love.html
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