ポール・グレアム

Y Combinator 共同創業者

愛することを仕事にする方法 Part. 1

2006年 1月

好きこそものの上手なれ。特別、耳新しい言葉でもない。私たちはこれを4単語に凝縮して言っている。「Do what you love(自分の愛するをするべき)」と。だがそう口で言うだけでは足りない。好きなことをやるということは、簡単なことではないのだ。

そもそも、これは私たちが子供の頃に学んできたこととは異質の発想だ。私が子供の頃、仕事と楽しみは本質的に正反対のことであるかのように思っていた。生活では2つの状態があった。大人たちに何かさせられる「仕事」。残りの時間でやりたいことができる「遊び」、の2つだ。時には大人たちがやれと言ってくるものが楽しかったりもしたし、転んで怪我した時なんかは遊びが楽しくなかったりした。しかし、そんな数えるほどしかない異常なケースを除いて、仕事はだいたい「楽しくないもの」と思っていた。

仕事が楽しくないのは偶然だとは思えなかった。そして学校が退屈なのは、大人の仕事をするための準備の場だからであると示唆されていた。

子どもの頃の世界は、大人と子供の2つのグループに分断されていた。大人たちは、まるで呪われた種族であるかのように、働かなければならなかった。子供たちは働かなくてもよかったものの、学校には行かなければならなかった。学校は仕事の希釈版のようなものであり、本物の仕事に備えるためのものであった。学校は嫌いだったが、大人の仕事はもっとひどく、それに比べて学校なんて楽勝だと大人たちは口を揃えて言っていた。

とりわけ教師たちは皆、仕事は楽しくないものだ、と信じて疑っていないようだった。当然だ。ほとんどの教師にとって仕事はつまらなかったのだから。子供達が、州都を暗記なんかじゃなくて、ドッジボールをしたがるのと同じように、彼ら教師も、子供の面倒なんかじゃなくて、ビーチでのんびりしたいわけだ。やりたいことなんかできやしなかったのだ。

だからといって、子供たちのやりたいようにやらせればいい、と言っているのではない。子供たちに仕事を経験させる必要もあるだろう。しかし、子供たちに退屈な仕事をさせるときに、仕事とは必ずしも退屈なものではないということを教えるべきだ。そして、今つまらない事をやらなければならないのは、後でもっと面白い事をやれるようにするためだと子供たちに言うべきだろう。[1]。

私が9か10歳の頃、父は私に「大きくなったら、何でもなれるのだよ。ただし、それが楽しめるものならばね」と言った。あまりにも変わった話だったから、私はそれを正確に覚えている。乾いた水を使え、とでも言われたような感じだった。父の言葉の意味について私もいろいろ考えていたが、まさか、働くことが文字通り、遊びほど楽しいという意味ではないだろうと思っていた。そして、その意味を理解したのは、数年後のことだった。

仕事

高校に上がる頃には、実際の仕事についての展望が見え始めていた。大人の仕事の話を聞いたり、仕事場を見に行ったりした。そして、大人たちは仕事を楽しんでいると教わった。確かに一人、自家用ジェット機のパイロットをしていた人は仕事を楽しんでいるようだった。しかし、銀行の支店長は、本当に仕事を楽しんでいるようには見えなかった。

大人たちが自分の仕事を楽しんでいるふりをしていた理由は、恐らく仕事を楽しむふりをすべきという、上/中産階級の慣習のせいだろう。自分の仕事を嫌っていると言えば、単に出世に影響するだけではなく、社会的に無作法としてみられていたのだ。

なぜ、自分の仕事が好きであるふりをするのが慣習になっているのだろうか。このエッセイの最初の一文(好きこそものの上手なれ)がその説明だ。何かをうまくやるにはそのことが好きでなければならないのであれば、成功している人たちは皆、自分の仕事が好きだということになる。上 / 中産階級のこの慣習はそこから来ているのだ。例えれば、所有者も知らないことに、アメリカ中の家にある椅子は、250年前、フランス国王のためにデザインされたものの模造品ばかりだ。仕事についての慣習的な態度もそれと同じことで、無意識的に、成功している人たちの態度や行動を真似しているわけだ。

なんという疎外のレシピだろう。何をやりたいのかを考える年齢に達する頃には、ほとんどの子供たちは仕事を愛する、ということを間違って教わっている。学校は子供たちに、仕事は不愉快な義務であるかのように教育してきた。そして仕事とは、勉強よりもさらに大変なことだ、と聞かされる。それなのに、大人たちは自分たちのやっている事が好きだと言い張る。これでは、子供たちが「自分はこの人たちとは違う。自分はこの世界に向いていない」と思うようになっても、仕方がないことだろう。

実際、子供たちは三つの嘘を聞かされてきた:学校の勉強なんて本物の仕事ではないということ。大人の仕事は(必ずしも)学業よりひどいわけではないということ。そして、多くの大人たちが言う、自分の仕事が好きだ、という嘘。

最も危険な嘘つきは、子供たちの親かもしれない。実際多くの親がそうしているように、家族に高い生活水準を享受させるためにつまらない仕事を選ぶと、仕事はつまらないものだという考えを子供たちに感染させてしまうおそれがある。 [2] この場合に限っては、両親はむしろ身勝手であった方が子供にとっては良いのかもしれない。自分の仕事を愛するという手本を示せる親の方が、子供にとっては高級住宅に住むよりもためになることもあるだろう。[3]

大学に入った後でようやく、仕事とは生計を立てるためのものという考えから抜け出すことができた。その後、重要なことは、どうお金を稼ぐかではなく、何の仕事をするかということになってきた。理想的にはこれらは重なり合うものだが、(アインシュタインが特許庁で働いていたときのように)いくつかの華々しい事例が、これらが同一ではないことを示している。

そして、仕事の定義は「飢え死を避けながら、世界に独自の貢献を行うこと」になった。しかしそれまでの長い年月の習慣から、私はまだ仕事というのは大きな苦痛を伴うものであると思っていた。仕事は依然として規律を必要としているように思えた。難しい問題を解解決することによってのみ、大きな成果を生み出ことができるが、そんな難しいことが楽しいなんてことは有り得ない。嫌でも無理に取り組まなければならないはずだと思っていた。

そして、大学院での私の経験で学んだことは、これだ:自分のしていることが本来大変なことなのだろうと思うと、間違ったやり方でそれをしていてもそれに気づきにくいということ。

Part. 2 につづく …


訳注:

[1] しかし、私たちは真逆のことをしている:子供に計算ドリルのように退屈な作業をさせる時、私たちはそれが退屈な作業だと率直に認めずに、表面だけの装飾で楽しいものであるかのようにごまかそうとしている。

[2] ある父親が、これに関連したひとつの現象について語ってくれた。彼は自分の仕事がどれだけ好きか、家族に隠していたことに気がついた。土曜日に仕事に行きたいときも、家族と家にいるよりも働きに行きたいと認めるより、「行かなければならないのだ」と言う方が簡単に思えるのだそうだ。

[3] 郊外でも似たような事が起こる。親は安全な環境で子供を育てたくて郊外に移り住むのだが、郊外はあまりに退屈で人工的なため、子供たちは15歳になる頃には世界とはつまらないものだと信じきってしまうのだ。

原文 : http://www.paulgraham.com/love.html
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